出会ってから3年を迎えて<5>

ちょっとここで、今まで書いてこなかった僕の考えていることを書くことにする。いや正確には考えていたことを書くことにする、というべきかな。

 

誰かが差別的な発言をしたする。

 

はっきり書いてしまうけど、別に差別的な発言に関わらなく、僕はそういった社会的に問題だと言われる発言の内容に興味が持てない。他の人たちが、その言葉を聞いて、賛成したり、反対しているけど、僕はそういった賛成したり、反対したりする感情が分からない。こういった僕自身の事情があって、このサイトでも政治的なこと、社会問題的なことは、全くといっていいほど書いていない。そもそも書けないからだ。僕には「この人がこういったことを言った」という事実があるだけだ。そういったことを言った人に対しても、特に何の感情も沸かない。自分が好むことであれ、好まざることであれ、起こったことは事実して受け入れるしかないと思っている。

 

その事実は起こったこととして受け入れるだけだ。これは生きていく上で起こった出来事も同じだ。自分にとって良いことだろうが、悪いことだろうが、そのまま受け入れるべきだと考えている。

 

この辺の感覚が、周囲の人とズレていることに気がついたのは大人になってからだった。それから誰かがニュースなどを見て意見を求めてきた時は、その人がどの立場なのかを過去の意見から推測して、その人がどういう意見を僕に求めているかを類推して当たり障りのない答えるをするようになった。僕はニュースを見ても怒りなど感じることができない。そもそも怒っている人が、何に対して怒っているのか?何故、怒っているのか?怒っている人と怒っていない人の差は何なのか?など、そういったことにしか興味が持てない。もっと考えれば、こういった怒りという対象が社会など世の中が悪いという外部に対して向かう人がいれば、自分が悪いと内部に対して向かう人もいて、その差は何だろうか?など考えてしまうし、そもそも怒りとは何だろうか?など考えてしまう。かといって、ニュースなどを見て意見を言い合っている人を馬鹿にする気も全く無い。物事の本質を考える際、そういった行為と本質はつながっているものだからだ。

 

昔、何人かのゲイの人たちから「冷静すぎる」と言われた。僕自身は冷静というよりも「関心がないだけ」というくらいのものなのだが、僕のこういった考え方が彼らに「冷静すぎる」と印象を与えてしまうのだろう。でも、たまにだけど「この人とは分かりあえる」と感じられるような人と出会うことがある。そういった時は喜びもひとしおだ。

 

僕は、そういった発言の内容自体に興味が持てない。じゃあ何に興味があるのかというと、人々が「言葉」によって動かされている、その様子にただ驚くばかりである。賛成する人もいれば、反対する人もいたりと、ある言葉が人間を動かす様に、ただ言葉の力に、言葉の存在に驚くばかりである。そういった「言葉とは?」ということにしか興味が持てない。

 

もっと言えば、差別的な発言をしている本人や賛成している人たちに関して問題なのかもしれないが、そういった発言を批判している人に対しても、差別的な発言をした人と似ているとか思えない。

 

僕の中で両者に差がない。

 

例えば、反対する人の中には、twitterなどで、そういった差別的な発言に対して、批判的なコメントをつけて投稿する人がいるが、僕としては、そういったコメントをしている人も同じにしか見えない。

 

人間が生きていけば、その中で差別は起こってしまう。差別に賛成であれ反対であれ、その事実はまず受け入れるべきだ。本質的なものに目を背けてはいけない。

 

<つづく>