出会ってから3年を迎えて<6>

差別を反対している人は、一方で他のものを差別している。差別を反対の人は、差別を反対と謳いながら、一方で差別をしている人を差別している。例えば、女性に対する差別反対と言いながら、一方で男性に対する差別をしている。

 

そういった差別などに対して、法律的なものや制度的なもので対処しようという意見もあるが、僕はそういったことにも興味がない。法律や制度といったもので、近代化や資本主義が進み人間的なものが排除されてしまう中、人間的な尊厳を与えているくらいのものでしかないと思っている。あくまで短期的な対処療法でしかない。僕は法律や制度などよりも、もっと本質的な大切なものがあると考えている。

 

僕の家の周辺には畑がいくつもある。朝6時過ぎから、外国人研修生たちが自転車で畑をまって収穫作業をして回っている。野菜によっては日に何度も収穫が必要だ。収穫するタイミングが遅れれば売り物にならない。その作業は真夏だろうが嵐だろうが関係ない。大雨の日に、家の中から畑に目をやると、青い雨合羽を来て収穫作業をしている彼らの姿が見える。畑の近くには自転車が置かれカゴの中には水分補給のために大きなペッドボトルが入っている。蒸し暑くて雨が降る中でも彼らは雨合羽を着て作業をしている。雇用主である日本人の姿は滅多に目にしない。そんな彼が収穫した野菜は100円足らずでスーパーで売られている。そういった誰かの犠牲にして都市部の生活は成り立っている。今の生活を捨てて、縁もゆかりもない異国で、安い労働賃をもらいながら、過酷な天候の中で肉体労働をして働く覚悟は、僕にはない。

 

資本主義が進めば進むほどに差別は深く存在していく。そういった豊かさを捨てる覚悟もなく、手足を汚すこともなく、パソコンを目の前に座って「差別が反対」などと謳うことは、僕にはできない。

 

僕は差別やいじめといったことは、とても人間的な行動だと考えてる。でも社会の中でうまく生きていくには、そういった人間的なものをうまく妥協して折り合いをつけていかなくてはいけないと思っている。ただ残念なことにそういった人間的なものを排除していくと、結果、似たような人間ばかりになってしまうと感じている。

 

自由とか平等とか言っても、劇的に素晴らしいものではなく、無味乾燥としたありきたりのものだったりする。何かをすれば自由になれると主張する人は、その何かをすれば自由になるという考えに縛られて不自由になっている。自分がその自由というものに縛れて不自由になっていることに気がついていない。

 

本質的なものは、どちらか一方に片寄って存在しない。その中間の淡いような場所に存在している。どちらか一方に片寄って存在せず渾然一体となって存在している。ただ、どちらか一方に片寄ったものを人間が好むのも分かる。その方が興味を惹かれるし、わかりやすく面白いからだ。

 

こういったことを書いていると、それなら「あなたはどうしたいの?」と問われるかもしれない。もちろん僕にも興味があることはある。

 

人間が生きていくなかで本当に残せるものは何だろう?

 

目に見えるもので残すこともできるだろうが、僕は目に見えないものの方が大切だと思ってい。目に見えないで残せるものと言えば、誰かが生き抜いた生き様かもしれない。あるいは、誰かが伝え残した言葉かもしれない。

 

<つづく>