人は生き様を残すことができるということを曾祖母から学んだ。
僕は両家の祖母を早くに亡くした。母方の祖母は、僕が生まれて2ヶ月後に亡くなっていたので記憶にない。母親は生まれた間もない僕を育てながら葬式をすることになった。父方の祖母も小さい頃に亡くなった。そういった経緯があって、僕は「曾祖母」にあたる人を「祖母」のように感じながら接していた。僕にとって「おばあちゃん」にあたるのは曾祖母一人だけだった。
曾祖母は厳しい人だった。他人に厳しい人だったが、自分にも特に厳しい人だった。親戚からも恐れられていて、息子の嫁たちの中には、彼女の存在が怖くて一度も家に寄り付かない人もいた。一族の長男の嫁という立場もあって、母に対して特に厳しかった。帰省した際、母親は早朝から日本海側の冬の寒風吹きすさぶ土間で朝食を作らされていた。その一方、一族のひ孫の中でも一番年下だった僕には対しては優しかった。
そんな曾祖母だが、僕が高校生の時に亡くなった。
この頃、母親は毎週のように料理を作っては父方の実家に顔を出していた。父親は仕事で家にいないことが多かったし、母親を一人で行かせても会話が弾まないので、僕も一緒に付いていくことが多かった。母親と一緒に往復3時間以上かかる道を車で通っていた。曾祖母は、僕にとっては祖父にあたる人。彼女にとって息子になるが、その二人で暮らしていた。
二度ほど入院を繰り返して退院していたある日。僕はちょうど母親と一緒に父方の実家に来ていた。それまでの曾祖母は体調が悪いとは知っていたが、その日ベッドに横たわる彼女を見て、あまりの弱りように驚いた。痩せていた身体は更にやせ細り、息をするのも苦しそうだった。
僕は「彼女はもうすぐ死んでしまうだろうな」と感じていた。
そろそろ帰ろうかと話していると、介護していていた祖父からシーツを変えるので身体を起こすのを手伝って欲しいと言われた。僕は初めて彼女の肌に触れた。肉が全くなくなっていて骨と皮だけになっていた。シーツを変え終わると祖父は部屋を出ていった。
僕は曾祖母と部屋に二人きりになった。
彼女は荒く息をつきながら何かを訴えるような目をして僕の方をじっと見ていた。僕は何をどうしたらいいのか分からず、ただ彼女と目を合わせることしかできなかった。母親の「そろそろ帰るよ」と呼ぶ声が聞こえたので、彼女に「帰るね」と目で挨拶してから逃げるようにして部屋を出ていった。
その2日後の夜遅く。曾祖母が亡くなったという電話があった。
僕はこの頃、もう一つ。全ての人が残せるもの。いや残すべきものは、これなのではないかという思うことがある。それはありきたりに言われているもので、本を読めば出てくるものだし、詩の中でも出てくるものだし、歌詞の中にも出てくるものだ。テレビ番組や映画を観ていても出てくるものだ。あまりに簡単に触れられているものだ。ただ、僕はそのものの複雑性に驚いてしまう。あまりに簡単に、そのものについて触れているのを目にすると「この人は本当にそのものついて分かって言葉を使っているのだろうか?」と疑問に思ってしまう。
そのものを残すには、自分というものをどこまで無くすことができるのかが重要になってくる。
<つづく>