短章集(1)

●須賀敦子

須賀敦子という作家の本を読むようになった。去年の初めころに『コルシア書店の仲間たち』という本を手に取って読み始めたのだが、その時は、はっきり惹かれることはなかった。ただ漠然と心のどこかで彼女の存在がひっかかっていた。

 

それから年末頃。新しく発見されたという遠藤周作の『影に対して』という本を読んだ。その時に、自分がなぜ須賀敦子のことが気になり続けているのか分かった。そのことに気がついてから『コルシア書店の仲間たち』『ユルスナールの靴』『ミラノ 霧の風景』を読んだ。子どもの頃に、遠藤周作の本が好きでよく読んでいたのだが、この二人はどこか似ているのだ。同じカトリックという点もあるのだが、精神性のどこかで深い点で、この二人は繋がっているように感じた。

 

●タコ捕り

土本典昭監督の『水俣-患者さんとその世界』を見た。その映画の中でお爺さんがタコを捕っている映像がある[*1]。実際の映画ではyoutubeに掲載されているシーンよりも長い。

 

この映像の中で出てくるお爺さんはタコを歯で食いちぎっている。そのタコはチッソの水銀に汚染されている可能性も高いのだが、そんな水俣病とは全く関係なく、このタコ捕りのシーンはただ美しい。

[*1]https://www.youtube.com/watch?v=_TWCk-4WZ4I&t=83s

 

ぼくは不安です

職場では障害を持った人たちを清掃員として雇用している。その清掃員の中で、すれ違うと必ず挨拶をしてくる20代の男性がいる。少し前に、給湯室を兼ねている休憩室に入ったところで、その清掃員の男性がノートを広げて日報を書いていた。真剣な顔をしてノートに文字を書き込んでいる。カップにお湯を注ぎながら、その人に視線を向けたところでノートに書かれている文字が目に入ってきた。

 

「ぼくは不安です」

 

そう大きな文字でページ一杯に書かれていた。僕は気になりながらも声をかける勇気がなく部屋から出ていった。最近、その男性は挨拶をしてくれなくなった。体調が悪いのか廊下ですれ違っても、掃除することもなく、落ち着きがなくフラフラしている。僕は「この人と関わってみたい」と感じながらも「自分には何もできない」とも感じて声をかけることができない。

 

●多様性と一様性

多様性は大事なことなんだろうか?
一様性は大事ではないのだろうか?

 

多様性ばかりに目を向けても違いばかりで人と結びつくことができず
一様性ばかりに目を向けても違いを排除して人と結びつくことができず

 

多様性の中にも人と結び付く鍵はあるだろう
一様性の中にも人と結び付く鍵はあるだろう

 

多様性と一様性 どちらも目を向けながら
「どうしたらいいのか?」と考え続けることが一番大事なんじゃないのかな?

 

●何のために?

我々は何のために来たか。
人のために何かをさし出すためである。
私は何も他のことを知らず
ただ詩によって何かをさし出すためである。
私を食え、食いちぎれ。
私のつくった小さい実を食いちぎれ。
その時はじめて私は一緒に喝采に加わるつもり

 

これは永瀬清子の『短章集』という本の中に書かれたものだ。
これ文章を読んだ時、これは僕が望んでいる生き方だと感じた。

 

●石牟礼道子と渡辺京二

渡辺京二が書いた『もうひとつのこの世《石牟礼道子の宇宙》』を読んだ。以前から石牟礼道子と渡辺京二の関係について気になっていたからだ。

 

この二人の関係に、僕は人間関係の根源的なものがあるように感じていた。

 

両者ともに家族がある。それなのに渡辺京二は執筆活動や水俣病の闘争を援助するため、自宅に石牟礼道子を招いて泊めていた。渡辺京二の娘は、子どもの頃から家にいる石牟礼道子のことを「親戚のおばさん」だと認識していたらしく、後になって全く血筋も関係もない他人と聞いて驚いたらしい。二人の関係は石牟礼道子が亡くなるまで続いた。

 

その本で渡辺京二は石牟礼道子との関係について、こんな一節を書いていた。

 

近代的な書くという行為を超える根源性を持つと信じたからこそ、いろいろお手伝いをしました。そういう大変な使命を担ってきた詩人だからこそ、お手伝いに意義を感じたのだと言えば、もうひとつ本当ではありません。

  

私は故人のうちに、この世に生まれてイヤだ、さびしいとグズり泣きしている女の子、あまりに強烈な自我に恵まれたゆえに、常にまわりと葛藤せざるをえない女の子を認め、カワイソウニとずっと思っておりました。カワイソウニと思えばこそ、庇ってあげたかったのでした

  

「カワイソウニ」

 

もしかしたら石牟礼道子が苦海浄土を書き始めた気持ちの一端にも、この「カワイソウニ」という気持ちがあったのではないだろうか。

 

石牟礼道子自身は、こんな一節を書いていた。

 

自分の周りの誰か、誰か自分でないものから、自分の中のいちばん深いさびしい気持ちを、ひそやかに荘厳してくれるような声が聞きたい。普通の日常でも人間お互いいかなる関係であれ、他者と心溶け合う瞬間を待ち続けて生きているのではないでしょうか。

 

誰かが誰かを憐れむとき、憐みを受ける人だけでなく、憐れんでいる本人も寂しいという気持ちを抱えているのではないだろうか。寂しい気持ちを分かち合うことができるのは、この「憐れみ」ではないだろうかと考えている。