言葉の力<6>

この「分からない」から「分かる」へと変化する感覚。

 

長い時は、数年どころか数十年かかることがある。

 

つい先日も経験したのだが、中学時代に読んで、ずっと「分からない」と考え続けてきた詩があった。一か月前の朝、仕事場に歩いて向かう途中、ふと頭の中に詩のことが思い浮かんできた。その瞬間、その詩の最初から最後までの意味が、自分の中にストンと腑に落ちた。その詩全体の意味から、詩人がなぜその詩を書いたのかの理由まではっきり掴めた。

 

この分かったという時。

 

何が分かったというと、それは意味なんだけど、この意味が分からないから、意味が分かるへと変化。とても不思議だ。他の人が書いた文章の意味が「分かった」時、僕は文章を書いた人であり、文章を書いた人は僕であり、もう自分と他人との区別はなくなっている。

 

これは言葉に限った話ではなく、絵画や音楽といった別の領域でも同様だ。

 

過去にも書いたけれど、僕はセザンヌという画家の描いた絵に関して絵の良さが全く分からなかった。ところが、愛媛県美術館が所蔵している『水の反映』という作品の実物を目の前にした時、セザンヌの絵の意味が分かってしまった。たった一枚の絵と出会ってからセザンヌの描く絵の評価が一変してしまった。僕が休日になると展覧会に足を運んでいたのも「分からない」から「分かる」への快感に他ならない。僕にとっては絵画の鑑賞が趣味というより、この心の動きを感じたかったからでしかない。

 

この「分かった」という感覚への渇望だけど、はっきり言って他の欲求よりもずっと強い。僕にとっては「これは何なんだろう?」と考えて「分からない」ものが「分かる」ようになることの方が、肉欲だとか金銭欲だとか所有欲だとか、そういった欲求よりずっと強い。

 

社会人になって研修などで討論をする機会があるが、僕はこの討論というものが苦手だ。

 

例えば「街で高校生がタバコを吸っているのを見かけました。あなたは社会人として彼をどうやって指導しますか?」というテーマで討論をしたとする。他の人からは「頭ごなしに叱るのではなく、じっくり寄り添うように話を聞く」といった意見は出てくるのだが、僕の方はもっと別の「社会人はタバコを吸ってはいいのに、高校生は吸ってはいけないのは何故なのか?」「社会人と高校生の違いは何なのか?」「どうしてタバコを吸うことは悪いことなのか?」「そもそも悪いことは何なのか?」といった疑問が次々と湧いてきて、他のことを考えることができない。僕が何かを指導するなんてことはできる立場ではなく、むしろ僕の方が高校生と一緒に対話して、自分の疑問に対する答えを探してほしいと思うくらいだ。僕は「〇〇をどうするのか?」と言った手段よりも、そもそも「〇〇とは何だろうか?」といったことを考えてしまう。そうなると討論の10分かそこらの時間では足りない。事象の本質となる「〇〇とは何だろうか?」という方が気になってしょうがない。

 

はっきり言うと、僕は本質的なこと以外、ほとんど関心がない。

 

<つづく>